1960年代
産休開けからの乳児保育の切り開き
愛知に共同保育所 誕生
東京をはじめとした共同保育所づくり運動の中で、愛知でも共同保育所(以下共保という)が誕生し、乳児保育とりわけ産休明け保育の切り開きがはじまりました。
それは、経済的な要因と女性の自立の高まりの中で、働く女性が増加した時代でもありました。女性の働く権利と子どもの発達保障を、自分の子どもだけでなく、たくさんの人と手をつないで育てあう、「共同」の力で考え実践しようという、保育のうねりが高まったのです。
しかし、“乳児は家庭で”という育児観や家庭第一主義の保育政策のもと、0歳児からの集団保育に社会は否定的で、根強い批判もありました。乳児期における集団保育の良さを、子どもたちの育ちゆく姿を通して実践的な立証が行われました。例えば「小さくても子ども同士が関わりを求め、その中で子どもが育つ」ことや、「専門職としての保育者による安心できる保育の専門性」などを指し示していきました。集団保育の積極面を強調したとはいえ、家庭保育の重要さや一人ひとりの発達の保障を軽視したわけではありません。これらの集団的保育の構築は、子どもの発達を科学的に見つめる実践のスタートとなりました。
必要悪ではない乳児保育の研究
社会的に集団保育の否定論が強かっただけに、乳児の集団保育実践を積み上げ理論化することが、社会的にアピールする上でも必要でした。
国や自治体の保育責任を「児童福祉法の完全実施」という文言で迫っていくものでした。各共保の保育者たちで、乳児の発達、日課やカリキュラムづくり、健康・たんれん・病気などの学習と交流が行われました。手本となるものがないので、とにかくみんなで学び合い実践し、理論化をすることに力がそそがれました。土曜日に共保の職員が集まり、「乳児保育研究会」「健康管理の学習会」などが定例化され、その間は父母が交代で保育にあたり、親も保育を支えていました。
まさに「親とともに」の保育づくりが、ここにつくられていったのでした。