1980年代
幼児保育の探求と臨調行革の嵐
福祉切り捨て 働き方が変わったバブル時代
国の臨調行革路線で福祉・保育の切り崩しの動きの中、革新市政も終わり、自治体も予算削減の方向に向かいました。80年後半のバブル期には、働く人の生活状態や勤務状態も多様になり長時間労働が増え、24時間営業店などが出てきました。その中でベビーホテルが乱立し死亡事故などが社会問題となり、ベビーホテルの調査や地域調査があちこちで行われました。
小規模連でも地域に目を向けて、オムツの干してある家庭を訪問してアンケート調査を実施したのもこの時期でした。地域に求められる保育所の役割を明らかにしていく中で子育て支援や青空保育・長時間保育や夜間保育が始められていきました。
発達の節目をゆたかに
発達の学習はますます深く追究され、身体づくりや認識・自我の育ち、それに合わせた描画発達など、様々な分野が研究されていきました。特に、「1歳半の節」をどのように乗り越えることに着目し、集団と個をどう結合させるのかを模索しました。
この時期の保育は、発達の節をどの子も豊かに乗り越えていけるようにということが一人ひとりの発達の目標となりました。そしてそこには友達の共感が不可欠であることを子どもたちの姿から明らかにしていく実践が充実していきました。
幼児保育の幕開け
開園時はほとんどが乳児保育園でした。しかし産休明けから幼児までの一環保育は、親たちの強い要求でもあり、それを受けて、就学前までの保育を行う園がいくつか出てきました。今度は幼児の保育が課題となってきました。各園で「あそび」「生活づくり」「集団づくり」をテーマに交流を深めていきました。
私たちの保育で育った、元気でのびのびとした子どもたちの姿をどうとらえ、未来を担う主権者としての子どもたちを育てるためには、どんな力をつけさせどう指導していくのかを考えあってきました。幼児保育を学ぶため、幼稚園や他都市の保育の見学に行ったり、学習会を設けたり、幼児の担当者交流を企画しました。
また、当初はまだ珍しかったアレルギー児の保育も、給食部会を中心に行い、アレルギー除去食の先進的な開拓や学習を積み重ねていきました。1989年8月『育ちあうほいく』-0歳から5歳までの保育実践―を主任会として発行しました。